軍神「西住 小次郎」大尉
寒暖の差が激しいその地で西住小次郎(にしずみ こじろう)は育った。
特別な手解きなど受けず小次郎は普通に育っていった。。。
小次郎は昭和9(1934)年、陸軍士官学校を卒業し、栃木宇都宮の歩兵第59連隊に入隊し、同年10月に少尉に任官すると、昭和11(1936)年から、福岡久留米の戦車第一連隊所属となった。
久留米の戦車第一連隊は国産初の戦車である「八九式戦車」の部隊であった。
昭和12(1937)年に小次郎は戦車小隊長として上海事変に出征した。
支那の呉淞から、宝山攻城戦、月甫鎮の戦い、羅店鎮の戦いと転戦し続けた。
昭和12年10月21日の「大場鎮の戦い」では、敵陣の真正面、約150メートルの地点まで繰り出し、そこから八九式戦車の大砲を猛射して戦況を切り開くという、とんでもない離れ業をやってのけた。
この戦いでは、大場鎮の手前にある小さな村が戦局の要衝となり、敵軍は準備万端整え日本軍を待ち受けていた。
日本軍は猛攻したが、なかなかそこを抜けらなかった。
そのとき西住小次郎は2台の戦車で、なんと敵陣の真正面に進出した。そしてなんと連続9時間も、そこから大砲を撃ちまくり、その結果、敵陣は崩壊し敵の守備兵は算を乱して逃げ出した。
この戦いが突破口となり、大場鎮は陥落した。
この戦いで、大殊勲を挙げた小次郎だか、事後報告はたいへん控えめで、戦績を誇るという風がまるでなかった。
平素は万事控えめで、尚且つ人見知りもあり
飾らないタイプだったが、いざ戦いとなるとまさに
「鬼神も恐れる勇猛ぶり」だった。
西住 小次郎はそういう男だった。だから部下も小次郎を信じていた。
大場鎮の戦いのあと、蘇州河に進出した小次郎は、反転し南翔攻城戦にも参加した。
必死で防戦する敵のため、戦闘は膠着状態だった。
すると、ここでも小次郎は、戦車で果敢に敵の真正面に突入する。。。。。。
ところが、敵のはなった一発が、何と小次郎の戦車を直撃した。小次郎の八九式戦車は、このため正面に大きな穴が空いてしまった。普通の兵ならそこで戦車を放棄し、後方に下がるが小次郎は、狭い八九式戦車の中で操縦手と射手を左右の側壁に隠しながら、自分は天蓋にぶら下がり、その状態でなおも2時間近く戦闘を継続した。
。。。そんな戦いの中、小次郎は部下の山根小隊を見失った。
小次郎は部下の事が心配で敵弾が飛び交い、うなりを上げるその中を戦車から飛び降り、真っ暗な前線で声を限りに部下を探し、呼び続けた。。。「お~い!お~い!。。。」
後にわかったのは、山根隊は単純に引き揚げルートを間違えただけであって西住小次郎隊と山根隊は、その後、無事に合流出来た。
このとき小次郎が山根隊に発した言葉が
「良かった。良かった。良かった。良かった」
と無事を喜び泣き崩れるその言葉だけだった。
小次郎は本当に部下を心配してた。。。。。。
その本気で心配していた小次郎は、実は声を限りに部下を捜している最中に敵弾で左足を撃たれていた。小次郎はやむなく軍靴の長靴を脱ぎ下駄を左足に縛り付けてもなお部下を捜し、そして戦闘を継続していた。
そして戦闘後、自分の痛む傷をほっておいて、重傷を負った部下のために、野戦病院で付きっきりで看病した。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ」
と部下を励ました。
この徐州作戦の最中、昭和13年5月17日に小次郎は、宿県南方の黄大庄付近で、敵陣に数十メートルというところで、乗っている戦車が手前の小川に阻まれてしまう。
小次郎は小川の深さを測る為に戦車を飛び降りる。そしてようやく戦車の通れる地点を見定めて、良しと思い、その旨をを中隊長に報告しようと走り出だした時に「パーン」と言う音と共に小次郎の右足が動かなくなった。
敵の放った銃弾は小次郎の右太ももを貫通し
銃左大腿部の動脈を切断していた。
動脈が切れたので血が止まらない。
慌てふためき部下が集まり、小次郎を戦車に救い入れ、介抱したが動脈出血は止まるはずない。
すると死を悟った西住小次郎は中隊長に、「中隊は左から攻撃する事が望ましいとおもわれます」
と報告し、近くにいた部下の高松上等兵には
「お前らとわずか1年で別れるとは思わなかった。立派な軍人になれ!」
と一言だけいった。
そして再び中隊長に、「中隊長殿、お先に失礼致します。どうかしっかりおやり下さい。」
と言い残した。
その後、熊本にいる母の方向に
「お母さん、お母さん、お母さん。。。小次郎は満足してお先に参ります。これからお一人でお淋しい事と思います。永い間、本当に本当に可愛がっていただきました。ありがとうございました。」
姉には、
「姉さん、色々とお世話になりました」
そして弟には
「立派になれ!」
と一言だけ残しこと切れた。
何とそれは、前進する戦車の中での出来事だった。
西住小次郎、享年25歳だった。
戦死後は特進し大尉となった。
死んだ小次郎の戦車の中には吉田松陰の歌が貼られていたそうだ。
その歌は
「親思ふ 心にまさる親心 今日のおとづれ 何ときくらむ」
。。。であった。
母親の事が大好きだった小次郎は出陣に際して母に
「お母さん。もう生きてはお目にかかりません」
と一言だけ一言だけ残した。
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小次郎戦死の知らせは、母のもとに新聞社の社員が知らせに来た。知らせを聞いた小次郎の母は、静かに立って仏壇を拝み、再び戻ってきて
「小次郎は軍人に志願の折から既に今日あるを覚悟していました。少しでもお国のためになりますれば本懐です。ただあれがどんな死に方をしたかそれだけが心配です。」
と最後の最後まで気丈な母親だった。
そんな母だったが小次郎が、本当は陸大入学を目指して猛勉強していたのを知っていた。そして、小次郎は兄弟の中でもいちばん元気が良い子供だった。。。。。。
新聞記者の前では、気丈に振る舞った母親の子供が西住小次郎だった。
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