『伊勢神宮』新国家の為の神道利用
それまで天皇自身が参拝した例はありませんでした。
もちろん信心だけではなく、御師(おんし)と呼ばれる旅行業兼宗教家の案内で、飲み食いを楽しみ、歓楽街で羽目をはずすこともあります。
全国から詰めかけた参拝客をもてなすために、境内にも茶屋が立ち並び、大いににぎわいました。
それまで天皇自身が参拝した例はありませんでした。
庶民とは異なり、参拝は厳かに執り行われました。
天皇が政治主権と宗教の最高権威を併せ持っていた古代に立ち返り、さらには全国の神社を政府の下に置くとの宣言です。
明治3年1月に出された大教宣布の詔は「惟神の大道を宣揚すべき」と、神道に基づく理想の治政を語りました。
神道国家を目指す政策が次々に実行されました。明治4年、「上知」として社寺領が没収されました。寺が打撃を受ける一方、神社には優遇措置がなされました。
官社、県社など格付けが行われ、従来の寺請(てらうけ)制度に換えて神社による氏子調べも始まりました。
しかし急進的な神道国教化は国民の反発を招き、間もなく行き詰まりました。
遠い昔、はるか天の彼方に、神々が住む高天原( たかまがはら)がありました。
可愛山陵、高屋山上陵、吾平山上陵の「神代三陵」があります。
三つの古墳は明治7年、宮崎、鹿児島の候補地から「治定」されました。
「文字通り政治的に定められたもの。新政府中枢の薩摩出身者の影響があったのでは」と中村明蔵・元鹿児島国際大学教授(83)はみています。
新政府は歴代天皇陵を次々と聖域化していきました。
大和の畝傍(うねび)山、麓の古墳とされた神武天皇陵では、付近にあった集落が整備の過程で移転させられました。
やがて天皇や功臣は神としてまつられるます。
にぎわいを見せていた境内から、民家や店がやがて取り払われ、神苑(しんえん)として広大な聖地に変わりました。
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