『伊勢神宮』新国家の為の神道利用

明治2(1869)年3月、その伊勢神宮を明治天皇が訪れました。
それまで天皇自身が参拝した例はありませんでした。
【隼】🇯🇵Japan🇯🇵 2024.12.18
誰でも

一生に一度はお伊勢参り、江戸時代の庶民最大の楽しみが、伊勢神宮の参拝でした。

天皇家の祖先とされる天照大御神と、豊穣(ほうじょう)をつかさどる豊受(とようけ)大御神を祭り、民の暮らしと縁が深いです。

もちろん信心だけではなく、御師(おんし)と呼ばれる旅行業兼宗教家の案内で、飲み食いを楽しみ、歓楽街で羽目をはずすこともあります。

全国から詰めかけた参拝客をもてなすために、境内にも茶屋が立ち並び、大いににぎわいました。

明治2(1869)年3月、その伊勢神宮明治天皇が訪れました。

それまで天皇自身が参拝した例はありませんでした。

神宮側は少年の天皇最高神天照大御神と同格に扱ったといいます。

庶民とは異なり、参拝は厳かに執り行われました。

1年前の慶応4年3月、新政府は祭政一致神祇官の再興を布告しました。

神祇官は古代、朝廷の祭祀を担当した役所です。「王政復古、諸事御一新祭政一致の御制度に御回復」しました。

天皇が政治主権と宗教の最高権威を併せ持っていた古代に立ち返り、さらには全国の神社を政府の下に置くとの宣言です。

天皇は神前で五箇条の御誓文を読み上げ、“神道国家”日本が幕を開けました。

明治3年1月に出された大教宣布の詔は「惟神の大道を宣揚すべき」と、神道に基づく理想の治政を語りました。

各地に宣教使が置かれ、「大教」と呼ぶ天皇崇拝の教義を説いて国民教化を推し進めました。神祇官には、天皇を守護する神々や歴代の皇霊などをまつる神殿を設置し、国家が全神社の祭神を支配する形となりました。

一方で、宮中にあった歴代天皇の位牌は、皇室の菩提寺泉涌寺(せんにゅうじ)(京都)などへ移されました。

神道国家を目指す政策が次々に実行されました。明治4年、「上知」として社寺領が没収されました。寺が打撃を受ける一方、神社には優遇措置がなされました。

官社、県社など格付けが行われ、従来の寺請(てらうけ)制度に換えて神社による氏子調べも始まりました。

しかし急進的な神道国教化は国民の反発を招き、間もなく行き詰まりました。

太政官神道の位置づけを「国家の宗祀(そうし)」とトーンダウンしました。

神祇官は格下げされ、明治5年には神仏合同の布教を行う教部省に置き換わりました。

遠い昔、はるか天の彼方に、神々が住む高天原( たかまがはら)がありました。

天照大神の孫ニニギノミコトは日向の高千穂峰に降り立ち、その曽孫は大和へ攻め上り、初代の神武天皇となりました。

古事記日本書紀に描かれた「天孫降臨」は南九州が舞台です。

可愛山陵、高屋山上陵、吾平山上陵の「神代三陵」があります。

三つの古墳は明治7年、宮崎、鹿児島の候補地から「治定」されました。

「文字通り政治的に定められたもの。新政府中枢の薩摩出身者の影響があったのでは」と中村明蔵・元鹿児島国際大学教授(83)はみています。

新政府は歴代天皇陵を次々と聖域化していきました。

大和の畝傍(うねび)山、麓の古墳とされた神武天皇陵では、付近にあった集落が整備の過程で移転させられました。 

やがて天皇や功臣は神としてまつられるます。

神武天皇橿原神宮、怨霊になったと恐れられました。

崇徳天皇白峯神宮南朝の功臣・楠木正成湊川神社などがつくられました。

連綿と続く「万世一系」の天皇家への崇敬は、国家神道として、昭和の敗戦まで日本人の思想に強い影響を与えました。

伊勢神宮と庶民を結んでいた御師は、明治4年に廃止されました。

にぎわいを見せていた境内から、民家や店がやがて取り払われ、神苑(しんえん)として広大な聖地に変わりました。

無料で「【隼】🇯🇵JAPAN🇯🇵の『ひとりごと』」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
日本人の精神性と使命感
誰でも
三島由紀夫と熊本神風連
誰でも
軍神「西住 小次郎」大尉
誰でも
マレー沖海戦と武士道精神
誰でも
肥後石工が作った肥後の石橋
誰でも
乃木希典将軍「遺言条々」と「殉死」
誰でも
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
誰でも
南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)