三島由紀夫と熊本神風連

僕の熊本の幼馴染みが神風連の乱の首領である大田黒伴雄(おおたぐろともお)の子孫でした。
【隼】🇯🇵Japan🇯🇵 2025.01.19
誰でも

明治9年10月24日(1876年)。

熊本の旧士族太田黒伴雄(42歳)、 加屋霽堅(かや・はるかた)ら神風連の約170名が、明治新政府の欧化政策に憤り、熊本鎮台司令官宅と熊本県令宅を襲撃、4名を殺害し、熊本城内の新政府軍熊本鎮台を占拠した。神風連の乱と呼ばれるものです。

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✴️「神風連の乱」は肥後敬神党(けいしんとう)の首領「太田黒伴雄」(おおたぐろともお)が起こした旧士族(旧武士)の反乱で神風連は「敬神党」の別名であることから「敬神党の乱」とも言われます。肥後敬神党は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派です。僕の熊本の幼馴染みが大田黒伴雄の子孫でした。タイ捨流の流祖である丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)の子孫である先輩や肥後国の豪族である内空閑(うちくが)、鍋島直茂の義兄である龍造寺(りゅうぞうじ)、あと九郎丸(くろうまる)、五郎丸(ごろうまる)など、変わった苗字の人がいました。

話がそれました😆

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明治政府の四民平等政策によって特権を失った旧武士階級は、日々不満を募らせていました。 明治6年朝鮮出兵を巡って西郷隆盛(44歳)、江藤新平(39歳)、板垣退助(36歳)らが下野すると、それをきっかけに不平士族に火がつきます。

明治7年には江藤率いる初の大規模な士族反乱 「佐賀の乱」 が起きました。 「神風連の変」 はその次に起きた大規模なものです。

三島由紀夫の『奔馬』( 「豊饒の海」 第4巻)は、昭和初期が舞台ですが、神風連に傾倒する勳という少年が出てきます。 彼は “純粋” であろうとし、その規範を神風連に見出すのでした。

奔馬』 の要点⬇️

純粋という観念は勳から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでいた。 勳はスローガンを拵(こしら)えた。「神風連の純粋に学べ」 という仲間うちのスローガンを。

 純粋とは、花のような観念、薄荷(ハッカ)をよく利かした含嗽薬(がんそうやく、うがい薬)の味のような観念、やさしい母の胸にすがりつくような観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるいは切腹の観念に結びつけるものだった。 「花と散る」 というときに、血みどろの屍體(したい)はたちまち匂いやかな櫻の花に化した。純粋とは、正反對(正反対)の観念のほしいままな轉換(転換)だった。 だから、純粋は詩なのである「奔馬」 より)

奔馬』 はかなり詳しく神風連に触れています。 その第9章などは勳が愛読する 「神風連史話」 という読物がまるまる45頁にわたって出てきます。 著者は山尾綱紀とありますが、これは架空の人で、石原醜男という人が書いた 『神風連血涙史』 という本を元に三島が書いたとのことです。

三島は10代の頃から神風連に関心をもっていたと推測されています。 学習院の5年先輩の東文彦とは、三島は15歳から18歳にかけて100通以上の手紙を交わして親交しました。

この東の母方の祖父 石光真清(いしみつ・まきよ)は神風連の加屋霽堅(かや・はるかた) と付き合いがあり、その著書 『城下の人』 で加屋に触れました。 東はこの本に挿絵を描くなどして関わりました。 十代の三島にも東を通して加屋や神風連の情報がもたらされたのではないかと考えられています。

三島由紀夫は1970年(昭和45)に市ヶ谷で自決しますが1966年に熊本神風連資料館にも立ち寄っています。

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