マレー沖海戦と武士道精神

武士道とは日本人の精神を支える倫理的な礎です。武士道の教え、すなわち「嘘をつかない」、「卑怯なまねはしない」、「最後まで誠実に行動する」という倫理観念は一般庶民の生き方にも大きな影響を与え、特に商取引を中心とする経済活動において信用を何よりも重んじるという気風を育むことになりました。
【隼】🇯🇵Japan🇯🇵 2024.12.23
誰でも

 武士道とは日本人の精神を支える倫理的な礎です。武士道の教え、すなわち「嘘をつかない」、「卑怯なまねはしない」、「最後まで誠実に行動する」という倫理観念は一般庶民の生き方にも大きな影響を与え、特に商取引を中心とする経済活動において信用を何よりも重んじるという気風を育むことになりました。

 武士道が日本の社会と人々に及ぼした影響力は、極めて広範、多岐にわたるものでありました。

 日本は、あらためて勇敢に散って行かれた英霊達への感謝を捧げると共に、散って行かれた彼らに恥じない、ほんとうの日本を取り戻す時にきているといえるのではないのでしょうか。

 航空機が機動中の戦艦を沈めた例は、歴史上たった三つしかありませんでした。その史上初の快挙を 成し遂げたのが我が日本国でした。そして、敵である船員達が避難・救助される猶予をきちんと与え、鑑と運命を共にした 敵の船長に対して最大限の敬意を示していました。こういう良い話こそ、歴史の授業で熱く語られるべきだと思います。

前置きが長くなり申し訳ありません。

 マレー沖海戦の話しをします。この海戦は、大東亜戦争開戦の2日後である1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊と、大英帝国東洋艦隊の間で行われた海戦です。よく、戦艦大和は、航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義の巨大戦艦大和を作り、結局、米航空体によって大和は沈められた、といった話を耳にしますがこれは違います。デタラメです。

 世界最初に航空機をもって戦闘態勢の戦艦を沈めたのは日本です。これにより世界の海戦の態様が変わりました。日本が、変えたのです。

それがマレー沖海戦です。

 この海戦で、日本は英国海軍が世界に誇る、当時の技術における世界最強戦艦を撃沈しています。英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備、さらにポムポム砲と呼ばれる対空砲を全身に装備していました。この砲は、1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじい兵器です。

 英国は2年も前から、ヨーロッパ戦線でドイツ・イタリアの航空機に襲われる経験を積んでいましたから、対空戦の経験も充分積んでいました。ですから英国の誇るこの大戦艦の前に、当時の技術では、世界中のどの戦艦も敵わないし、どんな航空機攻撃をも撃退されるとされていました。プリンス・オブ・ウェールズは、20世紀最強の暴君とも呼べる海の最強戦艦だったのです。

 英国首相のチャーチルは、東洋にある英国領土の植民地利権を守るために、この最強戦艦を旗艦とする艦隊をマレーに派遣しました。

マレー沖海戦で、日本は、これを沈めました。

そして、現実に、動いている戦艦が航空機によって沈められたという事例は、今日までの世界のあらゆる海戦の中で、今日ご紹介するマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって戦艦大和が撃沈された坊ノ岬沖海戦(1945年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって戦艦武蔵が沈められた捷一号作戦(1944年10月24日)の3例しか、世界の戦史にないのです。

 この三つの海戦のうち、あとの二つが昭和20年に、空を覆いつくさんばかりの航空機で日本の大和、武蔵が叩かれ、しかも船が沈んだときに、海上に逃れた抵抗できない乗員達にまで航空機からの銃撃と虐殺が行われています。

 ところが日本が昭和16年に行ったマレー沖海戦では、日本は限られたごく少数の航空機で、当時の世界最強戦艦を同時に二隻沈めたのみならず、乗員達の退避のための十分な時間を与え、乗組員たちの命を永らえたのみならず、戦域を逃れて漂流後に沈んだ英国海軍の将兵までも救助しています。

 大鑑巨砲主義だとか、日本軍には知恵がなかったとか、本当に戦後の我々は、いい加減な嘘を垂れ流されてきたものです。プロパガンダは、歴史ではないのです。

戦争には、

 1 侵略戦争 2 自衛戦争 3 制裁戦争の三つの区別があります。このうち、明らかに国際法上「違法な戦争」とされるのは、1の侵略戦争だけです。2は、攻撃を受けての反撃ですから、これは国家存続のための必要な行為です(これを国家生存権といいます)。3は、違法な侵略国や、ジェノサイドを行っているような国を、世界の諸国が協調して制裁を科すための戦争であって、これまた必要な行為であって、違法な戦争ではありません。

 日本国憲法が禁止しているのも、ごく一部のわずかな国を除いて、世界中の国々が規制しているのも、侵略戦争だけです。2と3は、日本国憲法上も、完全に合法な行為です。

 従って、昭和16年の大東亜の開戦も、日本は「挑発を受けて開戦した」のですから、これはマッカーサーも後に認めているように、明らかに「自衛戦争」であって、国際法上も完全に合法的な戦争であったのです。

こうした背景の中にあって起きたのが、マレー沖海戦です。

 英国側は、昭和16年12月8日の日米開戦の6日前である12月2日には、英国最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻で構成するG艦隊をシンガポールのセレター軍港に入港させました。

 これはどういうことかというと、英国はすでに日本が戦争を挑んでくる事を、事前に察知していたし、その日付まで、ある程度承知していた、ということです。要するに英国は、日本が攻めて来るように仕掛け、来たところを撃破してやろうと、米国とともに「待ち構えていた」ということです。

 ここは大切なところです。日本が真珠湾攻撃を行って、大東亜戦争を開始したのが、12月8日です。ところがマレーには、その前日である12月7日に、英国東洋艦隊が、トーマス・フィリップス海軍大将司令長官の指揮のもとZ部隊を編成して、シンガポールを出航しています。完全に、日本側の動きは、察知されていたのです。

 先の大戦は、日本の「奇襲攻撃」とされていますが、これで奇襲でもなんでもないことがわかります。網を張り、待ち構えている中に、日本が飛び込まされたのです。まさに「蟻地獄」です。

 マレー沖海戦で、日本の輸送船団を警護していたのは、金剛と榛名です。両艦とも近代化の改装こそ受けていますが、艦齢は27年を越えている老朽船でした。兵装や装甲の厚さも、巡洋艦程度の実力しかないボロボロの船です。

 これを、英海軍は、世界最強の戦艦二隻を含む最強艦隊で出迎えました。最新鋭艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、当時の英国王ジョージ6世の兄王であるエドワード8世の即位前の名前をいただいた船です。いかに自信満々の船であったかがわかります。

 同行するもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月こそウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じです。しかも、それまでにドイツ軍航空機による爆撃を何度も受け、それらを完全に撃退してきているという実践経験の豊富な戦艦です。

 普通の常識で考えれば、余程のアホでも、ここまで戦力が違えば、日本の輸送船団は完全壊滅させられると確信できます。

 では日本はどうしたかというと、とにかく輸送船団を護衛しなくちゃいけない。ですからサイゴンにある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を発進させました。海上の戦力が乏しいのです。空から補わなくちゃならなかったのです。

そして運良く、英国東洋艦隊を発見します。各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到しました。

 戦いは、熾烈なものでした。航空機による攻撃を、完全撃退してきた実績を持つレパルスと、それをさらにひとまわりも強化したプリンスオブウエールズが相手です。しかもボムボム砲が、弾幕で空を覆いつくしています。

 この戦いで日本側は、陸上攻撃機未帰還3、帰投時の不時着大破1、偵察機未帰還2、その他30機以上に深刻な被害を受けました。飛び立った半数が深刻な被害を受けたのです。どれだけたいへんな戦いだったかわかります。

 そしてその大激戦の結果、日本はなんと、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦レパルスの両方を撃沈して、沈没させてしまうのです。

 この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国チャーチル首相は、「あの艦が!」と絶句し、「戦争全体で戦艦プリンス・オブ・ウェールズの沈没は私にこれ以上の直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っています。それだけ、チャーチルにしてみれば、自信満々の日本叩きのための「絶対沈まない船」のはずだったのです。

 マレー沖海戦では、まず戦艦レパルズが沈みました。次いでプリンス・オブ・ウェールズが、大破しました。

 プリンス・オブ・ウェールズの艦長のトマス・フィリップス海軍大将は、日本の航空隊に向け、乗員を退艦させるので、30分時間をほしい、と打電しました。

 日本の航空隊は、これをのみました。おかげでウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移ることができたし、レパルスの乗員も捜索する時間が与えられ、エレクトラが571名、ヴァンパイアが、レパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助しています。

 その間、日本の攻撃隊は空で待機しました。英国軍の救助活動の間、いっさいの攻撃行動をしなかったのです。

 空で待機していれば、燃料が減り、その減ったところに敵機が、援軍機で攻めて来たら、帰投するガソリンさえもないまま、撃ち落とされなければならなくなるかもしれないというリスクがあります。

 それでも日本の航空隊は、待ちました。

 ウエールズの乗員が全員退艦したあと、トマス司令官が、ひとりデッキに残ったのです。彼は海の男です。やはり、艦とともに死を選んだのです。

 日本の航空隊は、それを見届けると、上空で全機整列し、一機ずつデッキ前を通過して、トマス艦長に航空機での最敬礼をして、敬意を払っています。トマス艦長も、最敬礼で応答しています。

 つまり、日本の航空機が空で待機したのは、まさに武士道そのものであったのです。

 さらに、マレー沖海戦の翌日、一機の日本機が、戦闘のあった海域に再度飛来しています。何をしにきたのでしょうか。

 その機は、海面すれすれまで下降すると、現場海面に花束を投下して去って行ったのです。敵となり、味方として死んで行った同じ海の男達の敢闘に、弔意を表したのです。

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